昭和四十七年二月二十九日 朝の御理解
X御理解第六十四節 「この方は参ってたずねるところがなかった。氏子はおかげを受けて、遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれ」
身凌ぎということがよく問題になりますけど、信心して徳を受けてと、身凌ぎをするようになれとおっしゃる。だから、ただ身凌ぎをするようになれと言うのですから、そこから自然と答も出て来ると思うのです。まあ、普通で言うと、誰にお世話にならんですむ、言うなら食べることでも、着ることでも、住まいすることでも、ちゃっと自分でもやってのける。人の迷惑をかけないというというような意味になりましょうけれども。徳を受けて身凌ぎをするようになれというのですから。徳を受けて身凌ぎというのですから、違ってくるのです。結局、この方は参って尋ねるところがなかった。けど皆はお参りして来るだけでなくて、尋ねて帰ることが出来る。そういう信心を、そこでどういうことを尋ねるかというと、身に徳を受けて身凌ぎをするようになれと。信心をさせて頂く、一応、なら道を尋ねるということは、ここで道を尋ねるようになると。
まあ実を言うと、ここで理解を頂かしてもらうと、まあこれはまあ大変難しいと。なぜかと言うと、徳を受けるという徳を受けなければ人間の幸せは有り得ないのだ。神様も助かって下さる。私共も助かるということにならないのだ、徳を受けなければと。もう言うならば、身に徳を受けることにならないのだと。
私はじめ皆さんが一生懸命精進しているわけであります。それで、御理解にどのように、行き方、在り方にならせて頂いて、どのような生活状態にならせて頂いたら、お徳を受けられるかと。身に徳を受けて身凌ぎが出来る。私はそういう意味だと思う。身に徳を受けるから身しのぎが出来る。一生懸命働き出して身凌ぎが出来る。お金を沢山持って、だからもう誰の世話にもならんでも良いと。または、信心で言うと、身凌ぎというといちいち神様に御願いせんでもと、先生からお尋ねしてもらわんでも、自分で直接、直接神様にお尋ね出来るようになれる。と言うような意味でも頂いておりますけど。
今日はそういう意味ではなくてね、徳を受けて身凌ぎをするようになれとおっしゃっておるのです。その身凌ぎということがね、神様に直接御願いするということではなくて、まあ言うならばお尋ねしなくても、神様か何かに、人に頼らなくても、物に頼らなくても
、お金に頼らなくてもやって行けれる道。そういう道が信心だと思う。「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と仰る。
私共が金を杖についたり、竹や木を杖についてということになると、金に頼ったり、物に頼ったり、人に頼ったり、してみると、それは身凌ぎとは言えませんですね。身凌ぎではない、金に頼っておる。物に頼ったり、身凌ぎとは誰にも頼らんで済むということ。いわゆる神を杖につけば楽じゃと。神様一心、一本でお縋りするように。そこには例えば、御願い不足とか、御礼不足とかようにございますけれども、人間のことですから、それでも願い以上のおかげを下さるというおかげ。三代金光様の御教えの中にそういうのがあります。神様はいつも願い以上のおかげを頂けます。これが私は身凌ぎとこう思うです。
先日、ここの西脇殿の庭が出来ます二、三日前だったでしょうか、梅里先生が見えて、丁度私と高橋さんと繁雄さんでしたかね、お茶を頂かしてもらった。それでもう一人で話込んでおられました。もうお話を聞くと、何と言うでしょうか、本当に何と言うか、聖人という生活をしておられるわけですね。第一欲がない、徳がない、欲徳なし。ただ自分の打ち込んでおる仕事に、ただ生き甲斐を感じておられるようですね。
昨日でもああしてもろうてから、まだ御礼を言ってないから、昨日正義さんが御礼に行くと言うから、本当に早よう行ってもらわにゃと。あれだけの仕事をたった一日で終わっているのですからね。ね、普通の庭師さんなら、これはまあ普通ですけど、これは石を据えて二十分も三十分もじーっと見て、「もういっぺんこれを上げ直してくれんの、これを右にしてくれんの」と言うのが普通の庭師の、まあこれは当たり前ですね。
だから一つの庭を造るのに、先月からも吉井の杉さんが正義さんの世話で、梅里先生のおかげで庭が出来た。先日からその大工に見に来たが、喜ぶことが、「私も随分あっちこっちの良い庭、よい家を見て来たけれども、こげなお庭は初めて、おかげで私が建てた家が一段と引き立った」と言って大工さんが喜ばれたと言う。
確かに名人です。それで他の庭師が言っておられたのは、十五日かかる。ところが梅里先生が行かれたら半分の日数で済んだ。ですから、例えば給料の支払が高いくらいのことじゃなか、ようできた上に、却って安くつくという。そうでしょう、一つの石を据えるのに一日かかる。石を据えるのに、もうその日は午後から雨で三時頃には済んで帰られたからね。あれだけの配石をされて帰られた。だから、普通で五千円のものを一万円出しても安かと思うです。それがなぜ、行き方というのは、とにかく何日かかれば金がよけい貰えるなんて全然考えてござらん。もう自分の気の趣くまま、さっさっさっさっとやって行けれることが、楽しゅうてこたえんと言った感じですね。お仕事をなさっておられる。まあ、あの年齢で若い者も勝たんといったような、時には青年といったような感じ、ですから自分の仕事に対する熱情と神情といったようなものを、この頃から話をしておられた。なかなか博識ですから、もういろんな、私共が知らない話を、私共よい知識を得られる、お話を聞きよると。というような感じの方です。
そんな話を聞かせて頂いている時でした。いわゆるいちいちもっともという話である。
私がお話を頂きながら頂くのが、あの奴凧という、今ごろ流行りましょう。昔、子供の時に上げましたね。昔、二尺真四角なら二尺真四角のその凧に、武者絵が書いてあるのがありました。例えばその時、その時の人気役者の似顔絵を書くでしょう。して、もう凧いっぱいに書いてある。ですから場合にはその凧が曲がったように、四角い中に絵を書くのでございますから、書くわけですね。その凧をこうやって上げておるところを頂いて、それが上にこう上がっておる。もう言うなら、上がるだけ上がっておられるというわけです。成程仕事に対するところの情熱とか、仕事に対する、金を儲けるとか儲けないということでなくて、ただそこに打ち込んでおられる姿というのは尊いまでに美しい。
けれども、悲しいことに信心がない。あれがどうでしょうね。信心修行ということになったら、あれだけの言うなら、何と言うですかね、言うなら清い行き方と言いましょうか。そして人間とはこうあるべきだ。人間はこうするべきであるか、人とはこういうものでなければならんと。言うなら凧の四角四面、これから一歩も出られんと。だから、ご自分はいつも窮屈な生活をしておられるということ。武者絵をこの中に入れて書いてあるでしょうが。そしてこう引くと、どれだけでも上がらっしゃる。というような感じです。
まあこれは悪い言葉ですかね。もう先生、あなたじゃなからにゃいけんち。正義さんなんか余程、むごうやるじゃろうかと思う。もうどこに行かんでも、正義さんが、言うならどこへでも行ってあげるとおっしゃった。ですから、正義さんが言うならどこへでも行ってあげるとおっしゃった。ですからもう何処にも行きなさらんですもん。けど正義さんが行ってあげるならどこへでも行きますとおっしゃいます。上げ方が上手いわけです。だから上げられて上がったのではいかんのです。限度がある。
但し信心のない人が、そのような生き方が出来るというのが、それこそ不思議なくらいです。金を儲かろうと思えばどれだけでも儲かられる。幾らと言えば幾らです。どこどこ社長の家の住宅と、どこどこの金満家の家にお出られて、幾ら金を積んでも行かんと言えば行かんと。言うなら名人気質です。私の方の茶庭をなさる時も何日か見えました。けれども、いやもうお神様に奉納させてもらう。昨日も計算に行くと言うけれども、向こうはもう取らんと言いよんなさる。「もう職人のとだけ一人分千八百円貰う」とこう言わっしゃった。千八百円で済むようなことです。こちらが向こうの言われる通りにすれば。けど、そげなことじゃいかんから、ちゃんとわけ言うて貰うようには申しましたけども、そういう清廉潔白な方なのです。
だからあの方がもし、私の言うことを聞かれて、本当に世の中にはそういうおかげの頂かれる信心というか、しかもその人間の考えと神様の考えの違いというか。いわゆるそういうことを尋ねようと、求めようと、より本当の求め方をしないところに、もう言うならば、晩年に近づいておられる先生は、あのまま窮屈な生活のままで亡くなられることだろうと思います。そしてそういうことを非常に尊いこと。住まっておられるのでも、まあ言うならば裏長屋のようなところに住んでおられます。なんとも言えん先生の感覚で、なんとも言えん落ち着いたムードの中に、小さい小庭を前にして住まいを建てておられる。い
わゆる竹の柱に藁の屋根、そこで例えば生涯欲を言わずにやって行けれる。そういう生き方を本当の善い生き方だと思い込んであるわけです。
だから私共、そういう生き方はとても信心しとる者でも真似が出来ませんのです。信心しよっても我情我欲一杯という意味で、我情はともかくとしてもね、我欲がない。さらに感じますね。お話をしておって、仕事をお願いしてそれを感じます。けれども丁度奴凧ではないですけれども、奴凧の中に書いてある役者の似顔絵ではないけれども、それこそ、そこ一杯に書かにゃならんから、窮屈な風に言わば書いてありますね。絵凧の絵を見ますと、伸び伸びとない。 金光様の信心はね、だからそういう生き方、又は本当に我情我欲一杯で一生を送って行くという人達もある中に、そういう美しい生き方をしておられることは有難いけれども、悲しいかな信心がない。そこで、参って尋ねるということはどういうことかと言うと、身に徳を受けてと、身に徳を受けてと、身凌ぎをするようになれと。段々おかげを頂いて、それこそ願わずに、頼まずに、ひとりでにものが出来て行くように、住居もやっぱり立派な住居に住みたい。着物もやっぱり立派な着物が着たい。食べ物もより美味しい物を食べたい。いや頂きたいと思わんでも、住みたいと思わんでも、神様はそれを整えて止まんという働きが頂けれるのが、身凌ぎが出来るということなのです。
そういう贅沢はせんでもよか、まあ、私共も贅沢しようとは思わん。思わないけど、どうぞ召し上がって下さい、どうでもこれを着て下さいと、こういう働きを受けられるのがお道の信心。そういうおかげが受けられるようになるということがです、身凌ぎの出来る信心だと私は思うのです。此方は参って尋ねるというところが無かったと、だからここへ参って皆尋ねることが出来るから、ならば何を尋ねるかというとです。そういう信心を頂かせて頂くために、そういう身凌ぎが出来るようなおかげを頂くためには、どういう信心をさせて頂いたらよいかということを尋ねなければいかんと思うです。それが尋ねれば答えて下さるのが金光様なのです。
ところが、私達が身凌ぎの出来るような信心、身凌ぎの出来るようなおかげを頂けれる行き方を果たしてしておるであろうか。それこそ梅里先生達の話を聞くと恥ずかしい限りである。信心さして頂いておる者が、我情我欲を言い、言うなら汚い浅ましい心があるということ。まあ想像してみて下さい、紋付きをつけ、袴をつけ、昔なら長袴をはきますよね。それは見事な、一分の隙もない姿を造るために、それはもう一分の隙のない姿を造るために、長袴もつければ裃も着ければ羽織袴も着けるのです。
信心とは私は、そういうおかげの、神様の下さろうとするおかげのです、水も漏らさんようなおかげ頂けることのために信心をさしてもらっておる。いや、それを尋ね求めて私共は信心しておると言うてもよいのです。決して下作ることじゃないです。おかげおかげと言う事は、低級だとか下作るとかいう信仰者もありますけれども、信心のない人の中には、信心すれば御利益と言うけん信心をしようごとないというような人が沢山ありますから、おかしな話ですよね。おかげを受けなければ立ち行かんのです。しかもです、ひとりでにものが出来るようなおかげを頂くことは人間最高の幸せです。それを、身凌ぎの出来
る信心とこう言うのです。
ですから、そこのところを尋ねて、ですから、信心をしておるからということは、言うならば裃をつけたような生き方というかね、神様のおかげをです、それこそ水も漏らさんおかげを頂くことのために、私共の信心姿勢というものがです、羽織袴を着けたような姿であらなければならんのに、成程羽織も着けとる、袴も着けとるけれども、裃はこう汚れとる。羽織の紐は千切れとり、袴はづん垂れとると言うごとあったらどうなりましょうか、皆さんが想像しただけでも滑稽でしょう。人事ではないです。羽織の千が取れとらんか、袴がづん垂れとりゃせんか。裃は着けとるばってん、こげん汚ろどりゃせんか、信心とはそういうことなのです。しかも、なら裃着けたり、紋付袴着けることが難しいことではないようにです、金光様の御信心は決して難しいことじゃない。そういう生き方をしなければ却って難しいというのが金光様の信心である。
私がよく申しますように、天地が奏でて下さるところの一つのリズムというものがある。そのリズムを聞き取る途を神様は教えて下さるでしょう、教えを。ですから、そのリズムに乗って行かねばやりにくいのです、却って。リズムに乗って行くから、出らん声も出れば、自分ながら、例えば浪花節なら浪花節を語らせて貰えば、陰の三線がなからなければ、陰の三線のリズムというものがなからなければ。流行歌を歌うでもそうです。いかに素晴らしい歌でも、伴奏のない人が歌ったっていっちょも晴れませんよ。陰の伴奏があって、その伴奏にのるから歌も素晴らしく聞けるし、又、歌いよくもあるわけです。金光様の御信心とはそういうものです。
御教えを頂かして頂くとです。天地が奏でて下さるリズムが聞こえてくるようになる。そのリズムに乗っての生活ですから、もしリズムに乗ってなかったら先には行かれんのです。進まれんのです。難しいとでも何でもないとです。袴がずん垂れとればずん垂れとるなり、羽織の紐が千切れとれば千切れとるなりで、袴を着けたり紋付を着けておるつもりでおるようなことはなかろうか。自分も信心しておるつもりなのである。そして勘心要のところは尋ねずに、どうでもよいようなことでも尋ねたり、聞いたりしておるようなことじゃつまらん。
願うということでもそうです。氏子実意を以て何なりとも、それは牛馬のことに至るまで、五穀豊穣、商売繁盛、家庭円満、無事息災を願う、祈るということだけれども。「実意を以て願え」と仰る。実意を以て願えということは、勿論実意丁寧ということでしょうけれども。私共がね、言うなら天地の奏でて下さるそのリズムに乗って、そこから生まれて来るところの願い信、願い心を以て願う心が実意を以て願うことです。
よい音色が出ているのだから、願う事も自ずと、ちゃっと神様の心に通う、かなう、願う心というものが湧いて来る。同じ繁盛を願うことであっても、願う内容が違う。ただわが商売が繁盛すればよいじゃない、その商売繁盛の願いが、実意を以て願われる時にです、神様の心にそれが通って行く。信心をさせて頂いておって、紋付を着たつもりでおります。袴をはいたつもりでおります。信心しておるつもり、そういう信心をさせて頂きなが
らです。
昨日、永瀬さんところの謝恩祭でしたが、あちらで頂きました御理解に、それこそ親の喉元に出刃包丁を突きつけるようなことを平気です。昨日の軽井沢の事件なんかそうでございますよね。八時間からの抵抗、九時間からも抵抗し続けて、もういよいよ大詰めになったわけです。そして昨日、皆さんもご承知のような結果になった。犯人も捕まった。その犯人が逮捕されたというのを聞くと同時に、一人の犯人のお父さんが首をくくって亡くなられたということを報道しておりましたね。もう本当に悲しいことこの上もないですよね。本当に子供が親の命を取ったのと同じことです。
が、私共信心をさせて頂く者がです、例えば殺しはせんでも親に心配をかけておる。親の命を縮めるようなことを、私共が信心しておって、してはおらんだろうかということ。信心、何のためにあんたどんな教えば頂いとるの。それこそ信心のなか者でも、そげなこと言うたりしやせんばい。と言う様なことを平気でして、お願いしてしよる事じゃからなんというようなことではね、私はおかげにならんと、本当に信心させて頂く者は、信心させて頂いておるつもりではなくて、本当に信心をせにゃいかん。自分の姿というものをです、いわゆる教えの鏡に尋ねて見なければいかん。
信心とは親に喜んでもらう、親神様に安心して頂く、そこだけに絞ると言うてもよいくらいです。だから、神様の喜びがこちらに返って来る。その安心がまた私共の心に、安心の心のおかげが受けられるのであります。そのことが私は金光様の信心を本気で尋ねる気になり、それを求める気になり、本気でそれを日常生活の上に現して行くことは、決して難しいことではない。一つの調子がわかるところまではなかなかややこしいことを言いなさるということになるかも知れません。反対に難しいことと思うかも知れませんけど、本気で習う気になると、自分で自ずとその信心の調子というか、天地の奏でて下さるところのリズムを聞き取るところまで信心せにゃいかん。
だから、本気で稽古をするという気になればです、誰だってわかるのが信心です。昔あの芸者さん達は、いわゆる若い時からしっかり仕込まれて、踊りを覚えたり、三味線教えられたり致します。それはもう本当に見事に弾いたり、見事に唄ったり、踊ったりするのを見ると、成程芸者じゃなあと思うけれど。芸者という人が、特別に技術が進んでおったり、頭が良いから芸者になるのじゃありませんよね。昔はむしろ家が貧困で、それこそ芸者に売られたという人達が多いのです。それを芸者に仕立てる。又、芸者になろうとするから難しい。言わば三線の絃にものを言わせるような技術も体得出来、又、踊りもこなせれる。踊り家になられることが出来るようにです、その気になれば誰にでも出来る。三味線を習いよるなら習いよる内にです。あーこれが何という調子だなと、これが二上がりだな、三上がりとわかって来るように。信心もその気になって信心するならね、その信心の調子というのがちゃんとわかって来るものであります。
自分の調子と天地の調子とがピタっと合う。それを私は天地のリズムとこう言うておる。どんなに天地がヤアヤア言うて下さっておっても、それを聞き取る耳がない、心がない
。そこに神様をいよいよはかない思いをさせることになるのですから、おかげの受けられる本当の意味に於いてのおかげの受けられるはずがない。ここへ参って信心することを、そういうことを体得させて頂くことを尋ねに、求めに来るのであるということ。
此方は参って尋ねるところがなかった。教祖の時代はそうであった。片便の願い捨てであった。信心と言っても。ところが、教祖の御信心によって、御修行によって、天地の親神様から、例えて言うと、成程梅里先生のお話致しましたが。人間はこういう生き方が本当だと言った。言うなら四角四面の、そして事実は、人間なかなか出来るものじゃないのですけれども。そういう行き方が本当だと。間違った行き方をして、一生うだつの上がらない、言うなら窮屈な一生を送らなければならないということは、本当につまらんことだ。言うなら、次の六十五節にありますように、日柄方位とかそういう家相とかいうようなものを見て、窮屈な思いをせなければなりません。
そういうところを教えて頂くところから、いわゆる自由自在な行き方、しかも天地と共に天地の奏でて下さるリズムにのっての行き方を信心生活というのである。信心しよりますと言うことは、言うならば、羽織袴を着けているようなもの。信心しよります。羽織袴を着けております。そんなら羽織袴着けておるから、誰が見ても成程きちっとして、なかなか紋付袴は良いなあと、皆が見とれるくらいの姿というものが、日常生活の中になからねばいかん。それは難しいことではない。私共の心次第でその行き方が出来る。
今日私は、ある方のことをお願いしておりましたら、長袴はくというような信心生活を、修行をさせて頂きますと、ホーっとお願いが進みましたら、もうその長袴はいてありますけど、もうずん垂れております。そして歩き難いものですから、ころころして歩きよんなさるものだけにというところを頂きますと。
ですから、きちっとはかせて頂くところははかせて頂いてというところに、私共は信心のいよいよ尋ね求めさせて頂いてのおかげ、信心して徳を受けて、身凌ぎの出来るようにというとこだけは、神様のおかげでそれこそ願わんでも頼まんでも一人でにものが出来るように、誰に頼まんでもよいというおかげを頂くと共に、金に頼った、者に頼った、人に頼ったというようなことでは、何時まで経っても身凌ぎの出来るような信心は出来ない。頼るなら此方一心と定めさせて頂くような信心がいよいよ身につけて来た時に、初めて身凌ぎが出来るといういうことになるのではないでしょうか。どうぞ